新選組の弓術の達人「安藤早太郎」

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💡 クイック回答 (TL;DR)

安藤早太郎は新選組の副長助勤であり、池田屋事件で負傷し亡くなりました。しかし彼は東大寺で日本通し矢第一の記録を打ち立てた弓の達人でした。

安藤早太郎とは

安藤早太郎は新選組の副長助勤であり、池田屋事件で負傷し亡くなりました。しかし彼は東大寺で日本通し矢第一の記録を打ち立てた弓の達人でした。

安藤早太郎は日置流竹林派で弓術を学び、その後応心流弓術を修め、刀術は北辰一刀流でした。通し矢とは二十四時間遠的に矢を射続ける競技で、三十三間堂では約121.73メートルの距離で行われました。

天保十三年(1842年)、奈良東大寺の西回廊で通し矢が行われ、安藤早太郎は11,500射中8,685射を通し、命中率75.5%で日本記録を更新しました。尾張藩の儒官は「古今第一」と称えました。

安藤早太郎と新選組

1851年に脱藩し知恩院に入り、1863年に壬生浪士組に加入。新選組結成時に副長助勤となりました。1864年の池田屋事件では近藤隊として三条大橋付近を捜索しました。

近藤隊が池田屋で会合中の尊王攘夷派を発見し突入。安藤早太郎は裏庭を守備しました。戦闘で奥沢栄助が死亡、安藤早太郎は負傷し、7月22日に傷が元で亡くなりました。

池田屋事件の年、安藤早太郎は約48歳でした。幕末の京都では弓術の出番は少なかったものの、東大寺での8,685通し矢の偉業は不滅です。奈良の東大寺を訪れた際には、西回廊にも足を運んでみてください。

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